2010年06月21日

fact

 

”木々や花たちは自然の中でみるのが一番美しいのになぜわざわざそれらを切ってまで、花を活けたりするのか?”
 ということについて。

先週のパリでのある夜、おれのなかで全くなかった非常におもしろい考えを聞いた。


 もともと遠い昔、人が花を活けるようになったのは、神仏に奉げるためがそのはじまりだったとされている。 それ以後、花はいけばなとして人々の生活に取り入れられ、いろんなスタイルが生まれ、西洋の文化も取り入れられ今日まで発展してきた。 

現代では日常のいたるとこでおれたちは花がかざられているのを目にすることができる。

  その夜、千宗屋さんが言ったのは、現代の人の生活いろんなシーンにおいて、花はいつでもどこかで飾られ毎日消費されているのを見ても、花を消費すること自体すでに人間の根源的欲求のひとつになっているのじゃないか、ということ。 

 そんな中で彼が言った結論が、いけばなは、木や花を切って消費するという感覚ではなく、むしろそれらを守る為にあるのかも知れない ということ。 


 
 花そのものが人間の根源的欲求ならば、その生ある花や木と真剣に向かい合い、見つめなおすことにより、どれだけそれらを愛でる精神が養われるか。花人や茶人の花一輪に対するストイックな精神などを思うと、 → なるほど、それわかる。になりませんか。


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だれかが美しい花を活けたとき、必ずだれかがそれを見て感動し新しい扉をあける。 そういうシーンをおれはこの仕事やって以来ずっとみてきた
この珠寶先生が故マーガレット夫人に献花した、たてはなの主な花材は、今回日本から持って言った自然の姿の紫陽花が数本、その日の朝、美術館の庭に咲いていた、マーガレット夫人をイメージして交配された紫のバラが2,3本、地元のひとが持ち寄ってくれたとうもろこしの若芽など。 真には、郊外へ出掛けたときになんとなく気になって拾ってきた松の枯れ木。あとは、先生自身がそのタイミングで集めた添え、下草だ

彼女がどのタイミングから人のために花を活け始めたのかおれはわからない。 けど いつも珠寶先生の花にはひとつの真があって、それらを支えあう仲間たち(添え、下草)が花便のにいる藁のなかで喧嘩することもなく(交差することもなく)水際より上でも平和な世界を作っている。 たくさんの人の気持ちを花に託すこのたてはなのいう非常にプリミティブな花のスタイルは先生の人柄にすごくあっていると思うしきっと天職なんだろう、と改めて思った


 
 たくさんの花人に花材を使っていただいているが、おれはあくまで卸屋だから、実はほとんどの場合花材をハンティングして、トラックに積むまでが仕事なので、実際おれが活けこみの場面に居る機会は少ないんやけど こういうふうに活けこみのシーンまでを手伝うとなると、もうそれはおれにとっては仕事ではなく勉強させてもらってる、という感覚になる
 




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おれがいままでもこれからも、こうやって花や木を探し続けるにも絶対にブレない芯があって、 それはさっきもの話題”なぜわざわざ花や木を切ったりするのか”という問いの回答になるのかもしれないけれど、 それは花や木が大切なことを伝えるメッセージになると思っているから。


 たとえばおれが探し出してきた花や木が、影響力のある人によって世間の目に触れることによって何が伝えれるか、ということに常に考えている。 その花や木を目の前にして人々が感動しなんらかの意識が芽生えることに意味があるんじゃないかな? 
 
おれは花を活けることはできないけれど、時代を担うひとたちに素材を提供する卸屋としてできることもあると思っている。


 そうえいば、森林保護だと言って、知識の浅いひとがおもむろに木を切るのがかわいそうだとか言うの聞くとしのびない。 もし生あるものを人間のエゴで殺すを認めない人がいるんなら、その人は肉を食ったことはないのか?とか、そういう理論のなるわけ。すごい枝ぶりの松を切っていけばなに使うのがかわいそうだという人がいたなら、じゃー草花や植林された木や雑木は切り倒してもかわいそうじゃないの?となるやん。 みんなひとつの命という意味では同じやで。野菜だってそうやで。 

 
  ただ単純に花や木を切ること自体が”かわいそう”というわけではない。 

 それは木を見て山を見ざるの類の話。



  余談やけど、最近では、木を植えるからエコだとか思うひとがいて、その考えもあまり気持ちよくない。 そんなカッコつけなくても、植木や花は、植えたくなったら植えたらいい。木を植えたところでエコにもなんにもなんないやん。 大事なのはそこから芽生える意識やと思う。 花や木を囲んでそれが話しのネタになったりふとリラックスできる空間と時間を持ちたいから、木を植える、と考えるほうがよっぽど自然なような気がするよ。
 この点については、もうすでに早い段階でたくさんの建築家の大先生たちは気づいていると思う。

 たとえば公園をひとつつくるのに10mのケヤキを10本並べて植えて景観をつくるとして、 それはそれできれいな景観ができるし人々の憩いの場になるやろう。 じゃあたとえばおれはその半分の予算で、その代わり樹齢300年の大きなオリーブを3本植えて景観を作るとする。   さてどっちが人の心に届くシーンを作れるか、記憶に残るシーンを作れるか、メッセージを伝えれるか。おれはその場にふさわしい方を常に天秤にかけて考えるわけ。どちらでもいいかもしれない。でも間違いないのは結局大きな木を植えるには大きな重機が要るし石油が要るということ。木を植えること自体はエコでもなんでもないけど、人々が気持ちいい空間に集って憩うというのが重要なわけやん。

 だからおれにとってはいけばなのために一輪の花を届けるのも、巨大な木をこの手で振り回しているのも基本的には同じだ。  なにも変わらない。その場所にふさわしいものを用意するということはどんな植物を探すときも変わらないねん。 ちゃんとメッセージが伝われば。 

 昔は ”おれは花宇やから、とにかくひとが想像できないような木を見つけてやろう、”とか ”とにかく日本一の木を扱いたい、”とか”自分しかできない木をやったる!”的なノリだけで植物を探して提供していた時期もあるけどいまはもうちょっとオトナになったということ。 


  
 忘れてならないのはうちも含めた花き園芸業界で働くすべてのひとたちは環境や自然と真反対のことばかりやっている。 今日び花を育てることも観葉植物も育てることもそれらを流通させることもすべて、油によって成り立っていて、一見エコとは真逆だ。

 でも人は花を見たり消費することが根源欲求ならそれは産業として消えるとはおもわない。生活のシーンでひとの手によって何気に目に触れている花や観葉植物がなくなるなんて想像できないやん。
わざわざ飾られている花や木に感動する理由はいくらでもある。

安心してほしいのは環境問題すったもんだと、いま言ってる話はスケールのバランスのあわない話だから。

 ただしおれたちのような花き園芸関係の業者はさっき話したような人間の根源的欲求のひとつ、花や木を消費することによって生まれるニーズにのっとって、今日もいろんな花や木を生産し、流通させ、商品として提供し、顧客に請求書をぶち込んでいる。
 ただし花き園芸業者はやはりそれでメシを食わせてもらっているんやから、そこのちゃんとした哲学というか芯があって、ちゃんと夢やロマンを伝えないとあかんと思ってるねん。  




 最初の話に戻るけど ”なぜわざわざ花を切ったりするの?” というような疑問をもつひとはありがたい存在。 


そういう言葉を出せるひとがいて始めて、”なぜなら・・・、”というその先の話ができるし、きっと納得してもらえる議論ができるとから。 
 むしろあるていど、感度が高いひとじゃないとそういう疑問すら浮かんでこないじゃないか、と思うけど。


日本で一番変な 花と木の卸屋をやってきて、最近ようやく自分の方向性が見えてきた。見えてきたっていうか、いままでどおりやっていこうって改めて思っただけのことなんやけど

posted by seijun at 23:30| unforgettable flower,  いつまでも