京都、武者小路千家・官休庵で、千さんにお茶を振舞っていただいた。

裏庭で花を捌く千さん。
”正月は毎年 床の間にちゃんと花を立てたい”と電話で千さん言っていたので、
おれは手土産に椿の花を三種類持っていった。
ひとつは、数ある椿の中でも名花と呼ばれる、正月らしい紅白の”岩根絞り”
もうひとつは、この季節にかかせない、茶人に最も親しみやすい椿のひとつである”白玉”
もうひとつは、葉も花も独特、日本の椿とは一線を画すベトナムの椿”ハイドゥン”
京都に向かう道のりで、千さんがこの3種の椿のなかから、どれを使うかなぁとたのしみにしていた。
今回は茶花としてではなく、たてはなをするということやったので、なおさらだ。
ところでみなさんは、その3種の椿のなかから千さんがどの椿を使ったか、わかりますか?
椿を包んであった紙包装を解いた瞬間、まるでおもちゃを見つけた少年のように夢中で手に取ったのは、ベトナム椿でした。 ”これは珍しい!” と言って一輪の花を見ながら本当にうれしそうやった。
おれも、なんとなくわかっててんけど、温室でハイドゥンが咲いていたのを見たときに”千さん 喜んびそうやなぁ”と直感で。
うちみたいに伝統的な花を扱っていると、いけばなでも茶花の世界では、たまにいる知識人っぽいひとが”こういうものは古典の花には使わない”と言う。 決まりきった教科書どおりにしないと不安になってしまうひとね。
しかし自分が新たな歴史の教科書になる存在と無意識にわかっているひとは必ずしもそうならない。そしてそういうひとに限って古典の知識に長けている。おれはそう思う。
千宗屋さんはまさにそういう存在やと思う。
数年前パリで出会った日に、おれが”千さんの存在自体がアバンギャルドですね”というと、千さんが”別にアバンギャルドに振舞おうと思ってお茶をやっているわけじゃないけど”とナチュラルに言っていたのを改めて思い出した。
余談になるが、利休の生きた前後時代の古典いけばなの絵は、池坊専好の立花図に代表されるようにどれをみても満開の花が立てるように活けてある。
もともと日本のいけばなは供花が元になっているので、花を立てるように活けられる”たてはな”という活け方が始まりだ。
そして当時絶大な影響力を持っていた唐物文化では満開の花がよしとされ、その感覚はもちろん”たてはな”にも浸透しているからいつでも満開の花が活けられたと予測できるけど、、、というか普通、花は咲いたときが一番きれいなわけやからみんな飾るときにはそういう状態のものを使うやんね。
しかし利休は、花が咲き誇っている状態を活ける、という常識を、 ”花は野にあるように”と、咲きかけている花(蕾)にも美しさを見出し、それを活けた。そしてさらに、立てるようにではなく自由に活けた。 これが現在でいう”投げ入れ花”の始まりであり、これを究極までマイナスの美学で研ぎ澄ましたのが茶花であり、 利休以降、茶花では蕾のものが活けられるようになったが、 これをやり始めたことは当時としては相当センセーショナルなことやったと思う。
おれの意見やけど、利休は、ひとと違うことをしようといつも頭をひねってたわけじゃなく、なにが理にかなっているかとか、気持ちよいか、相手にとってベターかを常に心に留めて言動していただけで、たまたまたどり着いたよりよい考えや作法がその時代までの常識に当てはまらなかったとしてもそれを貫き、それを見て人が心を打たれ連いていっただけなんじゃないかなと思う
ここで話はもどるけど、
もし千利休が現在に生きていて、3種の椿を出したら、まちがいなくベトナム椿を選んでいたと思いませんか。 ”いとおかし”(おもろいやん)ってね
大切なのは形式ではなく、心やと思うねんな
千さんにも利休の血が流れていて、それが珍しい美しい花に素直に反応しただけで、たまたまそれがベトナムの椿だっただけ、ということやね。 茶花に熱帯の花を使ってはいけないという辞書はない。そう考えると、たまたま花宇の温室でベトナム椿が咲いていて、官休庵の正月の床の間に千さんが立てたのも自然ならそれでいいのだと思う。
ちなみに千さんが真に立てた松は、先週銀閣寺花方の珠寶先生と兵庫の山に登って切ってきた時のもので、梅もお寺にあった紅梅と白梅だ。
かつて、いけばなの各流派の家元方々が公式でない場所で花を学んだという伝説の花人 岡田幸三先生から直接手ほどきを受けているだけあって、千さんのたてはなの手つきは、おれが想像していた茶人のそれをゆうに超えていて、 陽の気があふれる(つまりノリにノッている)いまの千さんを象徴するように花が見る見る決まり、大きく羽ばたくような花だった。

千さんは花を立てながら”たのしい”と10回以上言った(おれもびんびんきたけどね!)

そういえば、おれが官休庵に行ったらちょうど情熱大陸の取材のひとがいてたよ。 8日が放送らしい。たのしみやなぁ